事業家としてだけでなく、「スッキリ」(日テレ)、『新・日本男児と中居』(日テレ)などのメディアの出演も増え、タレントとしての顔を持つ前田裕二さん。
そんな前田さんの生い立ちが壮絶すぎると話題になっています。
また、髪型がダサいと噂になっています。
今回は、前田さんの生い立ちについて、また、髪型がダサいという噂についても調べてみました!
生年月日:1987年6月23日
出身:東京都葛飾区
学歴:早稲田大学政治経済学部
前田裕二の生い立ちがスゴイと話題!?
前田さんは、3歳の時に父親を亡くし、8歳の時に母親を亡くしています。
父親の亡くなった理由は明らかにされていないのですが、母親は病死されているようです。
前田さんには10歳年上の兄がおり、両親が亡くなった後、住む場所を失った二人は、日々友人宅・親戚宅を訪ね回り、何とかその日を生きるための生活をしていたそうです。
当時、大学受験を控え、医者への道を志していた兄は、医者になる道を諦め、弟を養うために、働き始めます。
弾き語り時代
小学5年生の時に、前田さんは親戚のお兄さんからもらったアコースティックギターを使って、弾き語りを始めます。弾き語りは趣味で始めたのではなく、弾き語りに対しておひねりをもらって、生活をするために始めたのでした。
小学5年生でお金が欲しいと思ったことはあっても、お金を稼ぐためにギター片手に弾き語りをしようと思った小学5年生は日本の中にどれほどいるでしょうか?
前田さんは努力の末、弾き語りだけで収入を生み出すことに成功します。
そして、月4~5万円を稼げるようになりました。
要領を得た前田さんは月15万円を稼ぐ月もあったそうです。
兄が初めて号泣した日
前田さんは両親が亡くなってから、生きる目的を失い、人生を彷徨っていたそうです。
小学6年生の時にあまりに素行が悪かったため、10歳離れたお兄さんが前田さんを涙を流しながら激怒したそうです。
前田さんはこの時人生で初めて兄が号泣するのを見たそうです。
両親がいなくなってから変わらない愛情をいつも注ぎ続けてくれていたこと、医者になる夢を諦め、自分のために働き出したこと、そして、そんな兄を自分のせいで悲しませてしまったこと。
前田さんはこの瞬間、自分の生きる目的をハッキリと認識しました。
「僕はいつも愛情を注いでくれた兄を喜ばせたい。」「兄を喜ばせるために頑張りたい。」「もう二度と兄を悲しませたりしない」「いつも兄が誇れる弟でいよう」
前田さんはこの時、そう心に決めるのでした。
それから前田さんは猛勉強し、学年で優秀な成績を叩き出します。
学校の通信簿はいつもオール5で、試験でも学校やクラスで1位を取るようになります。
前田さんは猛勉強の末、早稲田大学政治経済学部に入学します。
きっと受験の時も、どんな時も心にはお兄さんを想う強い決意があったでしょう。
大学を卒業後、たくさんの大企業から内定をもらい、その中から外資系投資企業であるUBS証券に入社します。
仕事に狂う
前田さんはUSB証券に入社してから、毎朝5時に出社し、真夜中の2時に帰宅するという生活を送っていたそうです。
それは全て、仕事で圧倒的な結果を出すと決めていたからでした。
朝5時に出社すると、日経新聞を隅々まで読み込み、お客さんとのトークの引き出しを仕入れます。また、マーケットをしっかり調査しながら、他にもクライアントが必要とするであろう情報をくまなくインプットします。
9時になると、寄り付き(電話営業)が始まり、クライアントに株を紹介して、買ってもらうための営業が始まります。
入社したばかりの頃は、なかなか電話に出てもらえないことが多かったため、前田さんは営業で成績を出している上司のもとに行って「どうしたらお客さんに電話に出てもらえるでしょうか?」と直接聞くのでした。
すると、その上司は「前田、今日付き合え」と言って、仕事終わりに前田さんを夜の繁華街へ連れて行くのでした。そこでは、前田さんをいつも電話で無視するクライアントたちがいました。
前田さんの上司は、お客さんを、女の子を、どこに行っても、周りにいるすべての人を盛り上げ、喜ばせました。
前田さんは上司の姿を見て、初めはガッカリするのですが、プライドを捨てること、コミュニケーションとは自分をさらけ出すことであると学んだのでした。
それから、お客さんを喜ばせることに、お客さんの気持ちに憑依することにフォーカスを充てるようになりました。また、毎朝5時出勤を続け、営業でも結果を出し続けた結果、前田さんは一年目で業績を認められ、翌年から同社のニューヨーク支局に拠点を移します。
クレイジーMAEDAを演出!?
ニューヨークに移ってからも、朝5時出勤は変わらず、質を量でカバーしようと休日返上でひたすら鬼のように働きました。
その結果、前田さんはチーム五人分の仕事を一人でこなすようになりました。
一人で五人分の仕事をするというのはどんだけの努力が必要なのでしょうか?
生粋の負けず嫌いである前田さんは「人には絶対負けない」という信念を持っています。
燃えるような圧倒的努力で仕事をする前田さんを見たクライアントの中には感動したという人もいたそうです。
前田さんと一緒に働いた人々は口を揃えて「前田はクレイジーだ」と言っていたそうです。
それをさらに裏付けるエピソードの一つに、職場の誰も完食したことのなかったニューヨークで一番辛いカレーを顔色一つ変えずに完食し、記念の表彰状を会社に持ち帰り飾ったそうです。
ニューヨークでもハングリー精神むき出しで働きまくる前田さん。
そんな前田さんに一本の電話が入ります。
代替えのきかない価値を提供したい
電話の相手はお兄さんでした。
電話口でお兄さんは、親戚のお兄さんが亡くなったことを告げました。
前田さんは言葉になりませんでした。信じられなかったからです。
小学生の時に、前田さんにアコースティックギターをくれた人でした。
大学生時代には一緒にバンドを組んでいました。
前田さんが弾き語りを始めるきっかけをくれた恩人が死んだことに、ショックを受けたのでした。
このことがきっかけとなり、人はいつ死ぬか分からないと強く考えるようになりました。
そして、前田さん自身も「死」を自分事として考えるようになり、「死ぬことが定められているならば、自分の使命に生きなければならない」とハッキリ考えるようになりました。
その使命とは「代替えのきかない価値を提供すること」でした。
それから、証券会社を退社し、起業を志し日本へ帰国するのでした。
SHOWROOM始動!?
就活時代に内定をもらっていたDeNAの代表取締役の南場社長からずっとアプローチを受けていた前田さんは、自分の起業アイディアを見てもらうべく、南場社長と就活の面接以来数年ぶりに会うのでした。
前田さんのアイディアを知った南場社長は、同じようなアイディアを持つ人は世界に五万といて、あなたに勝ち目はないと言い放ちました。アイディアで勝てるほどビジネスは甘くないと突き放したのでした。
しかし、こうも言いました。DeNAに来て起業について経験を積みなさいと。
証券マンとして圧倒的な結果を国内外で叩き出してきたものの、起業経験はゼロでした。
深く考えて、前田さんはDeNAの起業道場に足を踏み入れるのでした。
それから、試行錯誤の末、株式会社SHOWROOMを立ち上げるに至ったのでした。
若干26歳の出来事でした。
前田さんの生き様には感服です。一つも勝てない。特にその情熱には敵わないです。
皆さんはこんな熱い男がいたら自分まで熱くなりませんか?
前田裕二さん、カッコよすぎです!!
髪型がダサいと話題!?
前田さんの髪型がカッコ悪いと話題になっています。
メディアに出るようになってから、茶髪や金髪のホスト風の髪型をしています。
その髪型がヘンだとか、独特だと言われているようです。
前田さんのファンである管理人としてはこの評価が気に入らないのですが、
調べてみると、どうやら事情があるようです。
実は、前田さんはこの髪型をあえてしているそうなのです。
前田さんはメディアに出る際に、世間に少しでも覚えてもらうために、わざと特徴的な髪型をしているそうです。
タイミングが合えばいつでも髪型は変えられるとのこと。
つまり、このような髪型をすること、そして、世間からヘンだと思われることで前田裕二というじんぶつを覚えてもらうというのも作戦だったというわけです。
自分のプロデュースの仕方も天才的だと、これまた感服ですw
まとめ
・前田裕二さんの生い立ちは壮絶すぎるため、自身の半生を綴った「人生の勝算」を手に取りましょう。
・前田さんは自身をプロデュースするために奇抜な髪型にしている。
この度もご覧いただきありがとうございました!今後も気になる情報を発信していきます!
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